「糞の役にも立たぬ」という言葉がある。程度の低いものを基準として,それよりも更に程度が低いことを表すことによって,よほど程度が低いことを述べる構造になっているようにみえるが,そうでもないことに気がついた。そもそも糞の役に立つものがどれだけあるだろうか。
トイレットペーパーは大変役に立っている。いまどきこれがないと用が開始されない場合も多い。
水洗トイレも極めて役に立っている。
換気扇はあった方が良い。
暖房便座やウォシュレットも役に立つことがある。
食物繊維を多く含む食品や下剤,運動なども排便に有効であるはずだ。
この程度である。糞の役に立つかどうかと一般的に役に立つかどうかには何ら関係を見出すことができない。自動車やコンピュータも糞の役には立たないが捨てるわけにはいかない。「糞」そのものとの比較と異なり,かなり無理のある論理構造ではないか。
ではなぜこの表現があるのか。
少し調べてみると,面白い表現を見つけた。江戸時代中期(1700年代前半)の画家である「柳沢淇園」が書いた随筆「独寝」(ひとりね)にこのような記述があった。
文字は乾屎橛の如く,皆役立たぬもの,文字の上になきこそ禅家の無上の法なりなどといふもよく合点して見れば皆無駄事也。
(柳里恭「独寝」(従吾所好社)P.239; doi:10.11501/915521)
国会図書館のデジタルアーカイブで読める。
さて,「乾屎橛の如く,皆役立たぬもの」とあるが,「乾屎橛」とは何か。調べてみると,「くそかきべら」のことだとされていたが,後年「乾燥した細い糞」のことだと分かったらしい。
さらに,中国の「無門慧開」が書いた「無門関」という仏教書の二十一則に,「仏とは何か」「乾屎橛だ」という問答(?)が載っているらしい。加えて,臨済の「臨済録」にも「無位の真人是れ什麼の乾屎橛ぞ」という表現があるようだ。「禅家の無上の法なり」云々はこれに拠っているものと思われる。
「独寝」に戻ってみると,ここで「乾屎橛」の解釈が問題になる。これが「乾燥した細い糞」であれば,糞そのものが役に立たないと言っているにすぎないから,糞の役にも立たないなどという表現は生まれない。だが,どこかの時代では「くそかきべら」のことだと誤って解釈されていたようであるから,江戸時代中期ですらそうだったならば,「くそかきべらの如く役に立たない」という意味になる。これをさらにひどくすれば,「くそかきべらにすら使えない」という意味も生まれてこよう。
いやちょっと無理があるか。こういう話だけにスッキリしない。