あのとき一生懸命語呂合わせや反復練習をして覚えたあれこれが,今では何ともなく感じられるのは,やはり質より量なのだということである。今完全に忘れ去ったものについても同様のことが言える。
メガフェップスとかなんとかいって,目的語にto不定詞ではなく動名詞を取る(この辺はプログラミングをやっている人にとっては引数の型というイメージになる)動詞を語呂合わせで教わることがある。そういうのを嫌うと,今度はto不定詞は未来志向だから~,動名詞は消極的な感じだから~といったことを教わるのであるが,結局覚えるべき知識が増えるだけで,今度はそれを思い出す作業が発生し,全くスムーズではない。ここに苦労がある。
ところが,それから何年も経ち,かつその何年かである程度の量の英語と触れていた結果,「いやmind to doは見たことねえよdoingだろ」となるだけで,そこには意識された知識はないのである。この「見たことねえよ」に対する自信を持てるだけの量に自信が必要なのである。そしてこれは例えばmindという動詞に対しては自信が持てても,他の動詞ではダメということはある。
ただもちろん,敢えて聞かれれば,「え~っと」と言いながら江川泰一郎あたりを思い浮かべつつ,「確かロイヤル英文法にこう書いてあって」などと答えるのであろう。
勉強というのは質より量だなあとしみじみ感じる。今更どうしようもないのだが。
ここで面白いのが,知識の体系というのは美しくもあるが,それを得ようとすると暗記の苦痛が生じる点である。逆に,体系もなくただ量をこなしていくと,苦痛なく正解にはたどり着けるが全く体系は得られない(し時間がかかる)。場合によっては説明もできない(日本語母語話者はふつう,日本語に詳しくない)。
人工知能なるものも,知識をどう記述し,それを処理(推論)するかを一生懸命やっていた時代から,とりあえず量をこなしてなんとなく傾向をつかめれば正解は出せるでしょうという時代になり,また揺り戻しでやっぱり説明できた方が良いよねとなってきている。なんだか,人間の学習の過程に似てきたな。