拒絶の理由を発見しないから

その責めに帰することができない理由でブログを書いています

情熱が失われるとき

 会社が学校と違うのは,年齢の幅が広いことである。より正確に述べると,同じ立場の人々,あるいは同じ方向を向いている人々の年齢の幅が広い。学校には自分より遥かに年上の教員がいるが,立場が違う。「自分もいつかああなる」というべき人の候補が何人もいるのが(歴史が長く従業員のたくさんいる)会社である。

 上から下まである意味で均質である。ほとんどの人はいわゆる旧帝一工早慶を卒業している。誰と話しても言葉が通じないということはない。皆本質的な議論を求めているし,本質的でない議論をしていればそれにどこかで気づいている。

 ところが,明らかに,「仕事ができる」人とそうでない人に分かれている。恐らく,遅くとも入社時点,あるいは就職活動をしている時点においては,そうではなかったと推定できる。なぜならば持っている能力に大差は感じられないからである(ただし,「仕事ができる」かどうかによって得られる経験の差は生まれる)。

 従って,本人の情熱ともやる気とも言うべきものが,それを分けていると結論づけられる。問題はそれがいつ失われるのか,ということである。社会全体では20歳前後で既に失われている人の方が多いだろうが,ここでは論外である。

 これを問題視するのは,周囲の状況からみて,僕自身がそうなる可能性が十分にあるものの,そうなりたくないと思っているからである。これは全く共感されない感覚である。同じ世代でも,問題視していない人は多い。

 これまでの観察によれば,自分のやりたいことが,外力によって,全く実現されなくなったときに確率的に情熱を失うようである。失っていない人たちから想像される失わない方法は2つである:

  1. 外力を押しのけるだけの力を身につける
  2. 実現されないことを前提とする

 いずれも忍耐が必要である。1.は,能力の差というよりも,その能力を発揮し続ける時間の差にすぎない。諦めないということだ。2.は,諦めるということだ。この相反する姿勢の塩梅が雲泥の差を生んでいる。

 特に2.が重要に感じられる。実現されないことを前提としたとき,2つの手法がとれる。1つは,期待しないということである。さっさと織り込んでしまえば絶望は避けられる。3ヶ月でできそうなことは,3年かかると思っておけば良い。もう1つは,なるべく多くのやりたいことを抱えることである。そのうち1つでも実現されれば満足が得られる。

 40歳になったときに,実現できたことが1つでも多くなるように努めたい。

芝さつまの道

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